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メタ原点回帰

No.112(2023.01.16)


インターネットが一般化した現在、時間と空間を超越できる道具が具現化した、と出現当初にはとらえられていたように思い起こします。
共感してくれるのは高齢者だけでしょうか。

写真や録音が時間を、通信や放送が空間をそれぞれ超越していたとは言えるものの、インターネットには別次元の革新性がある。
初めてチャットを使った時に興奮しつつ私はそう感じました。

おとずれて欲しくない非日常が災害や戦争であるなら、手に入れたい非日常は娯楽や美食といったところでしょうか。

インターネットは欲している非日常をより手軽にもたらしてくれる利器です。

誰もがインターネットを利用する段階になると様相が変化してきました。情報を得るだけでは満足できず、他者と情報を共有したくなってきたのです。

人間の本能本性による欲求に応えるべく登場したのがSNSでした。
趣味や嗜好性が共通する同好の士とのインターネットでのつながりが心を満たしてくれたことでしょう。

現実社会での出会いとは時間と空間を共有するのが前提条件となります。
インターネットを利用すれば時間と空間の制約から解放された空前の出会いがあり、未体験の新鮮さに魅せられたことが私にもありました。

「出会い系サイト」という悪用されると犯罪に結びつくものも登場しましたが。

さて、インターネットは今や日常です。

現実では稀である理想的な出会いをインターネットに求める風潮は強まるばかりです。
かつ現実と同じように時間と空間の共有をも目指す方向に進んでいます。

オンラインゲームのプレイヤーが実質的先駆者でしょう。一般のインターネット利用者についてはこんな感じではないかと思います。

まず最初に時間の共有を実践すべくリアルタイム中継が試みられ、放送よりも柔軟かつ高度な双方向性が重視されています。

不可能と思われたインターネットでの空間共有も仮想現実技術の進歩により実用化され普及しつつあります。

インターネットが非日常から名実ともに日常に成り得たのです。ただし現実ではないのでもう一つの日常、オルタナ日常にすぎませんが。
オルタナ日常で生活するのはもう一人の自分、アバターという成りすましでしょうか。

現実が不幸なら仮想空間で幸福になろう。

悪い冗談だと思ったら、実際に目指す人がいるだろうと予測されているようです。

「リア充」という言葉が生まれた背景は、実際には現実に充実感が乏しく、インターネットが満たされない現実からの逃避先として充分に機能してくれたからだろうと推測します。

私は、現実に直面して生活するなら現実を直視するしかない、と思うのです。
現実の日常は「充」ではなく「素」であるのが普通だと考えます。

「素」は悪いことではありませんよ。

たまには早起きして朝日のまぶしさに目を細めてみよう。
風の声に耳を傾けてみよう。
腐った食べ物の臭いを嗅いで吐き気をもよおしてみよう。(笑)
バラやサボテンの針を刺して痛みを肌で感じてみよう。
そして染み出した血をなめてしょっぱさを味わってみよう。
五感を駆使して現実を生き抜こう。

合言葉は「リア」。(語呂悪っ)

レッツゴー「リア素」!(微笑)

最後に親方から一言。

メタバースとやらを
誉めそやす輩にゃあ~
気をつけな


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