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身につける機会の喪失

No.93(2016.09.28)


あるテレビ番組での発言内容に感心して唐木英明氏を知り、「不安の構造」という著作を読みました。

氏の考えている不安の根本原因には同意できますし、科学的に判断することの大切さを強調している内容にも概ね納得させられました。

ただし、自身の価値観に照らして違和感を覚える記述があり、読後もその部分が何故か強く印象に残りました。

細かい肉片を結着剤で張り合わせてステーキ状の形に加工する方法もある。肉の成型・加工技術は肉を安い価格でおいしく食べるための大事な技術である。

(唐木英明著「不安の構造」206ページより引用)

肉を安い価格でおいしく食べることに異論はないものの、結着剤で張り合わせるという方法を手放しで称賛する気には到底なれません。

はっきりとしない不満感だけが心の中にしばらくの間居座っていました。

やがてあることに気が付きました。

安い食材をおいしく食べる工夫は、元々家庭内で調理する際に実践されていたのだと。

伝統的に行なわれていたやり方はもちろん、料理の専門家が新たに考案したものなども加わり、日々の食生活に生かされていました。

そんな時代を過ごしてきた年代の人間だからこそ意識した違和感だったのです。

現代は科学的にはより高度であろう工業技術によって家庭に届く前に安い食材がおいしくされている、ということなのでしょう。

科学的に見れば偽装とはされないのかもしれませんが、心情的には限りなく偽装に近いやり方だと感じてしまいます。

それはさておき。

考えてみれば、料理に限らずあらゆる分野で、人が身につけていた知恵や経験則、工夫などが不要になっていくのが現代文明の宿命となっています。

昨今のIT技術の飛躍的進歩でそれがさらに明確になり、気付いた人には自覚されるようにもなったと言ってもいいでしょう。

IoTだかの技術が日常生活に浸透した頃には、人はIT技術なしには何もできなくなっていることでしょう。

過渡期にウェアラブル端末なる、文字通り身体に装着するIT機器が登場してきたのは皮肉な偶然でしょうか。


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